いじめは一生の傷2

 

2010年5月中間テスト後

 

通常の授業に戻った。

私は、この前省かれたのは気のせいだ…と考えながら学校に行った。

中学のすぐ近くに住んでいたので、5分くらいで到着する。毎日私は早くから教室に来ていた。いつも教室にいる人間は少なかった。

その時の記憶は定かではないが、fはいた気がする。何となくfと話して、朝のホームルームまでは持ち越した。

 

次の移動教室、いつものようにaたちと行こうと近づいた。

dが思いっきり舌打ちして出て行った、ついでにcも。すごい恐ろしい形相で怖かったのは覚えている。aやeは、それに促されるままについて行くだけだった。

とにかく私は1人で音楽室に向かった。

 

あの中学校は、女子が1人行動をしてると変な目で見られる怖い学校だった。誰かとグループになってないと、ひとりぼっちは目立ってしまう。とにかく喧嘩した子は、別のグループの子に混じろうとする。他にも、うまくいかない子はグループを転々としていたのは見ていた。

 

私は居場所を作らねばならない。

 

だから、私は、きつねのように目のつり上がった顔面のfらと仲良くなろうと思った。彼女たちは1年の時にdと同じクラスだった、ついでに部活の顧問はm。

最初は何とかf達と一緒の輪に入れた。まだ省かれた事実がよく浸透してなかったからだろう。

体育、休み時間、移動時間を彼女らと過ごした。

 

きっとd達が根回ししたのだろうか…

1週間ほどで彼女達からも避けられた。

というか、2-2の女子全員から省かれ始めた。

男子とはそもそも交流が無かったから、でも私を見る目は変わった気がする。

 

当時、私は携帯を持っていなかった。

他のほとんどの生徒が携帯を所持していた。だから裏で何をしてたかは知らないが、メールでいろんな情報のやり取りでもして、私をみんなで省いたのだろう。

 

吹奏楽部の三人組の態度も忘れられない。彼女らもdと一緒だったな、かなり性格が悪い女どもだった。私の顔を見るなりクスクス、口を開けて大笑い。

 

私は何かお前らに悪いことでもしたか?

まだいじめが始まって1週間足らず、もうよくわからなかった。みんなの目が怖い。

 

今思うと、1番辛いのは休み時間、体育や音楽で、移動中や待機時間はしんどかった。言葉では言えない胸の締め付けもあった。

親には言えるわけないから、辛くても、私は這ってでも学校に行くしかなかった。

 

いじめの特徴は「特に何もせず、こそこそと話し、省く」という根性が捻じ曲がった陰湿なやり方だった。奴らは大きく行動に出ることもなく、ただ省くだけで証拠も残さずにいじめ対象者を蝕んだ。

 

逆に何が救いだったか。

例えば美術。これはまだ無心で作ってればよかった、先生にも抑制する力があったし。あとは放課後の部活で会う友達がまだ救いだった。

 

ここで、

女子全員からいじめられる大きなきっかけになったであろう事がもう一つある。

社会のテストである。

いじめの中核をなすdは、地元の塾に通っていた。そこではチラシに乗るほどテストの点が良く、勉強ができる事が誇らしかったのか、自慢された記憶がある。

そして2年の最初のテスト、彼女はやる気に満ちていたに違いない。学年1番の点数を取った。先生が公表すると、dや彼女の周りがざわついた。誇らしそうな顔…。私は悔しながら2番手だった。

しかし、私は自分のテストに採点ミスを見つけた。後述する志望校の為に、最高の成績が欲しい私が訂正せずにいられるか。授業再開の前にささっと答案を見せ、訂正してもらう。

すると困ったことに、先生が学年最高点が変わりましたと言うのだから…。

別に1番になりたかった!とかじゃなかった。成績のためにみすみす捨てるわけにいかなかった点数なだけだ。

dの顔は怒り狂っていた。悔しそうな顔をしていた、多分睨まれたと思う。

いや、私だって、その、悪気はなかった。

 

次の休み時間、dはc達のところで「あー!もう!!」と大声で叫んでいた、私を見ながら。

これがきっかけとなり、私へのいじめは本格化したのだと思う。

 

次は今でも記憶に残る、辛かったことや救いの話をする。

いじめは一生の傷1

私は今から8年前、中学2年の5月から約1年いじめられた

その前はというと、

中学に入り、私は小学校の友達、部活の子くらいしか友人がいなかった。私は小さい時から特定の人としかいない癖があり、悪い癖だという自覚は多少あった。

第一、近隣の小学校から来た人たちは性格のきつい人が多かった。他県から小3の時に引っ越してから、「人が合わないな」と思っていた。さらに、中学受験で人が逆淘汰された感がある。

でも同じ町内の女の子a,bは仲が良かった。比較的穏やかだったのだ。だから、中学では、同じ町内の子達とずっといた。

でも、彼女たちは同じ運動部に所属し、私よりも固い絆があった。さらに、同じ部員の子達との固い絆も…

 

因みにら勉強はというと、ほぼ一番の成績を収めていた。はず。

 

中学1年の時はa,bと一緒だった。時々同じ運動部だったクラス違いのcやdが来ていたくらい。c,dともそれなりに仲良くしていた、と私は思っていた。

 

だが、2年になるとbとはクラスが分かれた。

私は2-2になり、そこにはa,c,dも一緒だった。また、私と同じ文化部の女子e、兄弟が知り合いの女子fがいた。

このクラスの先生は、一年の時から国語を教えてくれていた、結構性格がキツーイ先生m。

クラスのメンバーも結構性格がきつい面々が揃っていた。私は顔や雰囲気など第一印象から「なんとなく合わない……どうしよう…」と思い始めていた。

 

だいたい私のこの感は当たるものだ。

 

2-2の人々は、みんな部活や前のクラスのグループで固まり、私に居場所はなかった。唯一仲の良かったaか、同じ部活の子eしかいなかった。(eはdとめちゃくちゃ仲が良かった。)

aも、aの部活が同じのc,dがいた。とにかく私は一人になるのが嫌だったので、aについていた。なんとなくc,dとは合わない気がしていた。

 

そして、中学2年、5月7日

忘れもしない、中間テストの前だった。

急にa,c,dたちから省かれた。近づくと、特にc,dが私を睨みながらサーッと離れていった。

 

私は訳がわからなかった。

今思えば、私の交友癖の「特定の人としかいない」というのがdやcには疎ましかったのだろうか?

しつこくaを頼りに、付きまとうように行ってしまったのが悪かったのか?と思うしかない。

何で省かれることになったのかは、もう今となってはわからない。怖いけど、本当は知りたい。

 

5月7日、その日はとりあえず一人で過ごした。移動教室も一人で行った。少し弟との関係のある女子fと話したり、何となく一人でいたり、私は気のせいだろう…と思いながら1日を過ごした。何となく周りも違和感があったかもしれない。

 

この日は金曜日、もう来週の月曜からテストだった。

家に帰った私は違和感を覚えながらテスト勉強をして過ごした。

救いだったかはわからないけど、テスト期間は特別時間割だったため、テストが終わればみんな帰る。周りと特に接触もない。

だから違和感を再確認する余地もなかった。

 

あゝ、まだテスト期間は平和だった。地獄を見るのはテスト期間後からなのだ。

違和感は形となって現れた…………

 

2に続く

 

 

学校だけがあなたの世界じゃない

今辛い思いをしている人へ

例えば、いじめられて居場所がない人へ

 

あなたの家族や地元、学校の世界と人が全てじゃない。世界は多様性にあふれている。

 

だから、どこでもいい、今すぐに外界に出て。

 

外に別のコミュニティを持とう。隣の市の塾でも、好きなことに関する何かでも、なんでもいい。学校や地元の人たちがいない世界と繋がろう。

そして、自分の世界を客観的に見てほしい。

その中の事細かなルールやしがらみ、ボスに怯えてるのなんて馬鹿みたいと思えるはずだ。「あんな小さな世界で威張ってて、大海を知らないなんて奴らは可哀想だ。」と思えてくる。単一的な考え方しかできない、なんてつまらない奴らだ。

皆、別の世界があるだけで「死にたい」と思ったり、「自分は無力だ」と思う必要がないことがわかる。そうしたら、外でなんでもできる。

騙されたと思って行動に起こして欲しい。

これは逃げているのではない、冒険だ。

逃げているのは閉ざされた世界に固執する奴らだけだ。自分たち世界を守るため、必死に排除しようとする。

 

それからこれも覚えていて欲しい。

「辛い経験があなたの糧になるとは限らない」

 

ただし全ての人の深い心の傷になることは保証する。思い出そうとしなくても、いつでも記憶にあり、フラッシュバックする……最悪だ。

この辛い体験が糧になるか、それに潰されてしまうかは個々の性格にかかっている。例えば、私は気が強かった。だから、「こんな奴らとは違う、上を行く人生を送ってやる!」と、辛い思い出を勉強や諸々のバネにすることが出来た。

でも、それは万人に適用できるわけではないのだ。人の性格は十人十色。だから立ち向かわないで、余計な傷はない方が幸せだ。

そして、次の進学先で花開こう。

誰も知る人のいない場所でスタートしよう。

 

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なぜ今書くのかと言われれば、

 

私は授業に向け、『中国残留孤児 70年の孤独』という本を読んでいた。すると、残留邦人2世の語るいじめの経験や居場所を探す話が、私の過去と重なった。

色々な苦労や、今の自分を思い起こし、電車で涙が止まらなくなった。

特にこの部分、先生はいじめる側につくこともある。(平井美帆 著『中国残留孤児 70年の孤独』より写真で拝借)

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私もだ…冷たい目

いじめられてる瞬間にいた先生の冷たい目は、私は忘れない。

だから今ここでその傷を少しでも清算するために書くことにした。そして、この事実を永遠にネット上に残すために。

 

 

私へのいじめは中2の5月から始まった。

だから私は5月が嫌いだ。地元はもっと嫌いだ、小中学校が嫌いだ。それに関わる全ての人間や物事が嫌いだ。だから地元愛なんて言葉は虫唾が走る。

地元のおかげで嫌いなものがたくさん出来て感謝してるよ、本当に。

 

 

長くなってしまったので、

次の記事から私の経験した嫌がらせを事細かに書いていく。

上に書いたメッセージは私が万人に本当に伝えたいことだ。だからいろんな人と繋がろう。そして自分の道を歩いて行こう。

 

次の記事はこちら↓

https://americandream.hatenablog.com/entry/2018/05/05/005437

 

フランスが好きだ②

なんと私もついに明日は初めての面接だ、明日から怒涛の面接地獄が来る気がする。

準備はしてない…でもなんとかなる気がしている…でもしんどい…

 

だから今日はフランスの続きを話す。

以前は、私はフランスについてテレビ、チラシ、パンフから得ていると言った。

 

チラシはパンフと同義なところはある。例えば旅行会社のチラシならパンフと変わらない。

 

それとは別に、デパートやショッピングモールのチラシが重要なのだ。

北海道フェア、フランスフェア、バレンタイン、クリスマス…これらのイベントに合わせて必ずスイーツはついて来る。私はその機会を今か今かと待ち、火曜の新聞のチラシにデパートのフェアチラシが入っていると大歓喜なのだ。

特にバレンタインは、日本の市場めがけて、世界中からパティシエやブランドが集まって来る。私にとって最高の時期である。

…ハロウィンからバレンタインにかけてが1番至福のときではないだろうか?

こういう時だけお祭りクリスチャン万歳だ。

 

私はチラシを見て、デパートの特設会場を何周もする。いろんなデパートをめぐる。

オススメは横浜だ。あそこは規模が1番。日本橋や銀座よりも力が入ってると思う。

こうして、毎年見るブランドやパティシエの名前はだんだんわかるようになる。商品もだんだん覚えてしまい、大きな写真で紹介されてるとしても、これは○○さんかな?とか、これは何味かな?とかを考える。

そして何より、チョコレートに詳しくなる。

 

もう一つバレンタインの楽しみをあげると、

バレンタインフェアは現地から有名パティシエが日本に押し寄せる。

デパートなどでお客に試食を振る舞い、サインをするパティシエたち。フランス語やドイツ語、英語を話す彼らは、中学生の私にとってスターでしかない。

私に美味しい?と話しかける。互いに片言の英語や片言の日本語で意思疎通をする。

 

かっこいい、その一言だ。「私もフランス語を喋りたい、もっと話したい。いや、フランスにパティシエ修行に行き、大人気パティシエールになりたい。そして同じように彼らと話したい」と思うのだった。たぶん。

 

それからサダハルアオキのような、フランスで店舗を持つ大人気パティシエが日本にやって来るのもこのバレンタインの時期だ。

彼のように現地で店を持ちたいと、中高生の私が思ったのは言うまでもないか。

 

このように彼らパティシエが日本にキャンペーンで来るのは、少し早めの1月末にサロンドゥショコラが東京で開催されるからだ。

私も行くようになったのは大学生になってからである。それまでは気づいたら終わってた。だって1月だぜ。

サロンドゥショコラは人が多すぎてかなわない。

しかし、そこに集まるチョコは日本橋高島屋や横浜高島屋に集まる比じゃないんだ。

こんなの初めて!っていうものもいっぱいある。そこにしかこないパティシエもいる。

 

 

ということで今日は終わり。

次の「フランスが好きだ3」はサロンドゥショコラとテレビについて触れよう。

 

 

 

 

 

 

 

2018/04/12の日記

私は昨日のたった1日で、

「財布、鍵、定期券」

この貴重品ビッグ3を紛失した。

 

幸いなことに、どれも無事に親切な方に拾われた。

 

最初は財布である。

朝1限に出る前に郵便局に行ったが運の尽きだった。財布をリュックにしまいながら外をでて、よく確認もせず学校に向かった。

この時財布はリュックに入っていなかった。

 

私が財布を落としたと知ったのは、兄弟からの意味深なLINEである。保護してくれた郵便局が池に電話してくれたらしい。

最初は私のことだとは思わず、弟におバカな返信をした。ふとカバンに目をやると確かに軽いし、財布の影が見当たらない。

 

ああああああああああ!そういうことか!

と理解するのに時間はかからなかった。しかし呆れた。去年もそうやってしいふをメトロの券売機前に置いてきた。

 

だが、何も取られることなく拾われて良かった。不注意には気をつけようと誓った。

 

その矢先、鍵と定期を紛失。

私はバイト前にスタバで優雅にホワイトモカなんぞを嗜んでいた。バイトの出勤時間が迫り、トイレやメイク直しをしようとあるビルのトイレに向かった。

トイレで、私はよく考えずに上着を勢いよく脱いだ。その時きっとポケットに入っていたキーケースが落ちたのだ。

これさえなければ、私はわざわざお金をかけずに往復する必要はなかったのに。

 

気づいたのは終電ギリギリの駅。

バイト先かも!と戻るも無意味。

すぐ近くに鍵たちはいたのに、私は泣く泣く帰ったのだ。帰り道に確認すると、そのトイレのあるビルで私のキーケースが届けられていた。

ああ。もう少し早く気づいていれば。

もう一度交通費をかけ、学校前に行くことはなかったのに。

 

バカである。

 

今週は教室に日傘をわすれてきたりと散々だ。

そして、1日でこんなに失くしものをするとは思っても見なかった。

不注意を昔から指摘されていた。注意力散漫なのだ。耳がいたい話である。

 

 

 

 

 

フランスが好きだ①

今日、大学一年でお世話になった先生が受け持つ「フランス語講読」の授業を受けた。

懐かしさ以外に、ぼんやり感じたことがある。

私は本当にフランスが好きなんだなぁ…と。

 

という事で

これから度々、何故フランスが好きなのか、フランスに対する思いなどを書いていこうと思う。

 

これは初回である。

予定としては「フランス好きになるきっかけ」を書く。

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フランスと私は切っても切り離せない。

私の今までの弱冠21年の人生で欠かすことができない。

 

兎に角フランスに対する憧れが大きい。

そして実際に行き、心の底から素敵だと思ったのだ。人生が豊かになりそうだと感じた。ワクワクした。(悟空が戦いの前に言うアレを想像して欲しい)

 

たしかに私は海外かぶれの自負はある。

特にヨーロッパかぶれ、フランスかぶれ

 

でも、好きになるのに「かぶれ」以外から入ることがあろうか?

最初はちょっとした興味、ミーハーな気持ちがなければ何も起きないだろうが!!(私は興味が多いしミーハーすぎるが…)

好きでいろいろ調べて、それを繰り返してどんどん知識が増えてくものだろう?好きが大きくなるのだろう?

好きに対する長さ、知識じゃない。

大事なのは「かぶれ」から好きをどれだけ大きくし、本気になるかではないか。

 

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と、まあ、ここからは題名通りフランスが好きな話に戻ろう。

私はフランスが好きだ。

何故好きなのだろう?何から始まったのだろう?

こうやって書きながら考察を進めたい。

*初回の投稿で断った通り、私に文才はない。そして考察力もないので、そこは大目に見て欲しい。

 

フランスに憧れを持ったのは中学生の時だと思う。

当時、パティシエになりたかった私はいろんなお菓子の本やチラシ、バレンタイフェアに釘付けだった。パティシエがテーマの番組、料理番組…いっぱいみた。

パティシエは修行期間がある。中学生の私は私は修行するならお菓子の本場がいいと思った。

そう、フランスはパリ。この時からフランスに注目するようになったのだ。

 

もともと絵も好きで、デザイナーもいいなと思っていた私だ。フランスに興味を持つのも時間の問題だったと思う。

 

きっかけはお菓子。パティシエ。

お菓子、パティシエ、専門学校、なり方、いろんなことを調べながらフランスの事もたくさんテレビや本で見た

パリってどこ?フランス語って?外国のパティスリーってどんだけあるの?女性パティシエは?フランスでなるには?ショコラティエとは?

 

主な情報源はテレビ、チラシ、パンフ

海外ツアーのパンフレットでは、フランス各地の名前、世界遺産、名産を見続けて覚えた。

このツアーパンフは、この先、旅行やヨーロッパ、世界への趣味につながるのだ。フランスだけでなく、イタリアやスペイン、スロベキア、アメリカやドイツ、カナダといった地名や名所、季節を覚えた。

 

 

2に続く

 

 

 

新学期と私の野望

ついに始まった、私の最後の学生生活

 

まだ好きな人には会えてない

明日は会えるかな

 

友達は卒論を考えなきゃと言っていた

そうかみんなそんな時期か

 

私はゼミに入ってない、だから卒論もない

去年、親の言葉に惑わされて私は入る気のないゼミに入った

そして病んだ

 

だから、気が向かないことは、たとえ人に勧められてもやったらいけないと学んだ

私は好きなこと以外は放り投げるタイプのようだと気づいた

 

そしてゼミをやめた時スッキリした

 

ゼミをやめたらある映画と出会い、私は人生が一変したのだ

 

「ゼミが私の良い運を吸い取った」

と今では思ってる

やめた途端に明るさが戻った、勝気が戻ってきた

 

でもみんなは入ってる、立派だ

私のちゃらんぽらんさとは違う、忙しさも

 

私は助手やバイトやサークルや趣味で駆け回ってる

みんなはまともに勉強をして、そしてゼミでいろんなことを身につけ頑張っている

私みたいなクズとは違う

 

私は「私の思うことを通さないと気の済まない」、わがまま野郎だ

 

辞める前、好きな人にLINEでゼミ辞めたいと世迷言をしたこともある、しかもゼミ中に涙目で

 

きっと、協調性のないクソ野郎だと思われてる

好き勝手やってるやつだと思われてる

嗚呼、また自己嫌悪

ただの被害妄想

 

でも直接話せる機会も減り、SNSでやらかした私はどうしようもなくメンがヘラってると思う

友人だけの垢で闇ツイートしたいが、多分うざいからできない

めんどくさいやつ

小さい時からそうらしい

 

もう大物になるしか?

面倒くさい我の強い奴ほど大物になるのでは?

 

あと私に関して言えるのは、

協調性がないこと

 

…さあどう生きる?

占いにも、性格検査にもなんでも創造性とコミュ力の低さと協調性の無さはぶれない、あとぶれない強さ

だから、芸術家とか、教祖とかが向いていると言われる

ただの社会不適合者じゃないかよ


でも好きなことは表現、エンタメ

多分言葉じゃ無理だから、絵や他の手段で「私」を訴えるのだ

なら何故今この文章を書いてるのだろう?

まあ巡り合わせ、訓練、何とでも言おう

 

とにかく、これら表現を仕事にしたい

 

表現することは好き

小さい頃からずーっと絵や歌や映画やテレビが好き

それで生きていたい

 

私は世界も好き

 

だから

アカデミー賞を取るプロデューサーになりたい!」

「ハリウッドで働くんだ!」

と最近言い出した

 

やるなら1番を目指したい

 

親には笑われる、まあ無視だ

でも、やりたいと言っていれば、言霊が何かと繋いでくれるかもしれない

だから外の世界で発し続けててはいる

 

目指す舞台はアメリカ、世界

しかしながら、私は日本で就活している

 

でも、私にも浅薄ながら考えはある

 

1.日本から映像制作をして世界の賞を目指す、または世界への仕事のチャンスを掴む

2.就活失敗したらアメリカにインターンしてそのまま就職

3.就活失敗して、英語勉強して大学編入、アメリカの大学を卒業し、インターン中に働き口を探してアメリカ就職

4.日本で就活し、お金を貯め、TOEFLで点を取り、25歳までに渡米して大学院または編入(できる?まだ調べが足りない)からのアメリカ就職

 

この4パターン

 

私的には2、3が有力である、特に3

就活はでも大手を受けているから世界のチャンスがないわけではない、から頑張る

がしかし、

今私はアメリカの大舞台で世界を股にかけ、エンタメで羽ばたきたいのだ

 

だからIDはAmerican dream

 

脳内ハッピー野郎かもしれない

そうかもと私も割と真面目に考えた

でも、やるならハリウッド行きたいし世界に名を残したいじゃん?

 

 

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では寝る

明日は舞踊の授業が気になるので見に行かねばならない